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20話 【Since Then!】


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20話 (歴) 【Since Then!】



■ 歴 ■

長湯をしたつもりはなかったのに火照るように熱いのは、風呂場で繰り広げた痴態が原因に違いない。
『足を滑らせてしまった透子先輩を介抱していた』という咄嗟の出任せで白を切り通したものの、胡散臭さは否めない。
その透子先輩は――明らかに様子がおかしかった。
伊神さんとの恋が実り、すわ幸せの絶頂かと思いきや、その心は不安に揺れているようだった。
奇しくも周囲に人だかりができ、好奇の目に晒されたとあっては、直接問い質すことも躊躇われ、結局聞けずじまい。
無情にも先に上がってしまった透子先輩から遅れを取りつつ、私も後を追うように脱衣場へと移動したのだった。
温泉に癒されるどころか、かえってぐったりしてしまった気がする。クールダウンにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
バスタオルを身体に巻き、旋回する扇風機の前に立つ。少しだけオアシス気分を味わう。――扇風機を独占し続けるわけにはいかない。
暑さの所為で、どうしても動作が鈍くなってしまう。のろのろと身支度を整えていたら、着替え終えた時点で23時を回ってしまった。
暖簾を潜った先にある休憩所でスポーツ飲料を買い求め、一口煽った。それだけでも不思議と回復できたような気がした。
辺りを見渡せば、見覚えのある宿泊客たち――ほとんどがユナイソン社員だ――が小集団を作り、談笑している。
そんな中、2人掛けソファーに1人で座っている不破さんを見掛けた。「不破さん」と呼び掛けても反応はない。
物思いに耽っているのは透子先輩から直接真相を告げられたショックだろうか。そもそも透子先輩はきちんと報告したのだろうか……。
その点が気になるけれど、『私が話すから喋っちゃ駄目』と釘を刺されてしまっている。
車内でけしかけるような発言をしてしまったのが未だにシコリとなって疼いている。どうしても不破さんに謝りたかった。
視線に気付いたのか、不破さんがふと顔を上げて「歴さん?」と尋ねてきた。何か言わなければ。でも言葉が浮かんでこない。
「座らない?」
指し示されたのは、不破さんの隣りだった。私はテーブルの上にペットボトルを置くと、不破さんの隣りに腰掛けた。
沈黙が流れ、どうしようかと考えあぐねていると、不破さんの方から話し掛けてくれた。でもそれは、思いもよらない言葉だった。
「歴さんに頼みがあるんだけど……」
頼み? 透子先輩とは関係があるのかないのか。小首を傾げながらも先を促す。
「何でしょう? 私に出来ることなら」
「……やっぱりいいや。よしておくよ。そうだな、時期が来たらお願いすることがあるかもしれない」
随分歯切れの悪い言い方だ。いつもの不破さんらしくないので、心配になって訊ね返す。
「かえって気になります。もしかして、ややこしい問題でも抱えてます?」
「ちょっとね。でも自分で何とかしてみるよ。ごめん、今のは忘れて欲しい」
釈然としないけれど、不破さんがそれでいいというのなら頷くしかない。それでも一言添えておく。
「もし私が必要な時は、遠慮なく仰って下さいね。力になりますから。絶対ですよ?」
どこか不破さんは不安がっている気がして、私はその目に訴えた。
やがて、ふっと目元の筋肉が緩んだかと思うと、不破さんはにこりと微笑む。
「役得だ」
「はい?」
「お風呂上がりの歴さん。血行が良くて、頬が火照ってる。しかも浴衣姿。ポニーテール。柾さんが見たら絶対ノックアウト」
急に何を言い出すかと思えば。話題を無理にでも終わらせたかったのだろうかと穿った見方をしてしまう。
「からかわないで下さい」
「本心なんだけどな」
不破さんが軽口を叩くのは珍しい気がした。それだけ精神的に参っているのだろう。
「不破さん」
「ん?」
「透子先輩のこと……」
「あぁ……。うん。フラれたみたいだ」
にっこり笑って――笑い飛ばそうとしているけど、誤魔化し切れないのか、ぎこちない笑みになってしまっている。
普段なら上手く立ち回れるのに。なまじ肝が据わっている不破さんだけに、傷付いた心が垣間見えた気がして、心臓を鷲掴まれたような気分になる。
だって、透子先輩に伊神さんと話す機会を与えたのは私で。その結果がこれなのだから――。
「ごめんなさい……!」
私は不破さんに頭を下げた。
「透子先輩を焚き付けたのは私なんです! 私……透子先輩が今でも伊神さんを想っているような気がして……。
不破さんが透子先輩にアタックするチャンスは今までに何回もあったから、伊神さんと向き合うチャンスがあってもいいなんて言ってしまったんです!」
「あー、それは違うから。歴さんは何も悪くないし、誰も悪くなんかない。これは恋愛だもの。だからそんな風に考えないで。自分を追い詰めちゃ駄目だよ」
不破さんは慰めてくれる。なんていい人なんだろう。だからこそ申し訳ない。詫び切れない。
「全く同じことを透子先輩にも言われました」
「だって本当に誰も悪くないんだ。……透子さんの心は伊神さんに向かっていて、僕の心は透子さんに縛られていて――。
伊神さんは当然、透子さんが好きだ。両想いなんだから、僕の負けは決まってたんだ。ずっと前から知ってたよ、これが実らない恋なんだってことは」
「私……最低です。今度は不破さんの恋が実ればいいのにって思ってる……。伊神さんを知らないからこそ言えるのかもしれないけど……」
「歴さんのことだ。伊神さんという人物を、僕や透子さんほど知っていたら……それでもって僕の恋の方が成就したらば、伊神さんにも言っただろうね。
『今度は伊神さんの恋が実ればいいのに』って。歴さんの優しさは、時に残酷だ」
「……!」
「責めてるわけじゃないから気にしないで。それだけ歴さんが親身になってくれてるってことだよ。そうやってひとに寄り添えるのは美点だと僕は思う」
そう補足してくれるけど。残酷だ、という言葉は、なぜか私の心に澱となって、簡単には消えてはくれない。
私は残酷なのだろうか。いつの間にか誰かを傷付け、不幸にしているのだろうか。
或いは誰かを不幸にしてしまうのだろうか。遠くない未来にでも……?
去来する不安、ざわめく心。嫌な予感は拭えない。
不破さんはジッと私を見つめる。そこにはキラキラと眩しい生気が見えた。
「歴さん、ありがとう。正直、どんな慰めより、さっきの言葉は効いたよ」
「……え……?」
「僕の恋が成就すればいいのに――ってやつ。ねぇ歴さん」
「……はい?」
「こう見えて、僕は諦めが悪いんだ。だからリベンジ。僕は透子さんを諦めない」
「!」
「尻尾を巻いて逃げる犬と、獲物を捕らえる猟犬。どっちを選ぶかは僕が決める。ていうか、もう決めたけど」
「……そもそも、前者なんて始めから考えてなかったんじゃありません?」
「そうでもないよ。これでも5秒ぐらいは、『他の女!』とか思ったりしたし」
「! ふふっ」
「見っともない5秒でしょ? この僕が1秒たりとも透子さんを諦めようとしていたなんて」
「不破さん……。頑張って下さい」
残酷だろうがなんだろうが、私は『応援したい人』の応援がしたい。
だからきっと、無責任と知りながらも私は励ますのだろう。これからも。
伊神さんを知ろう。そうすれば、今度は伊神さんに『頑張って下さい』って言えるから。これで平等だ。
同じ『残酷』なら、私は優しい残酷者でありたい。


*

2基のエレベータは、共に遥か上階を行き来していた。
不破さんと別れた私は、B1階から上を目指す為に階段を利用することにした。どちらか1基を階下まで呼び戻している時間が惜しくて。
そのまま2階へ昇ろうと身体の向きを転換させると、目の前にホテル入り口付近に位置するロビーが広がり、ついでに兄の姿を見付けた。
風呂上がりの私とは違い、兄さんは宴会に出席した時と同じ、ワイシャツにスラックスという出で立ちだった。
時刻はそろそろ日付を跨ごうとしているのに、今までどこで何をしていたのだろう?
手には携帯電話を持っている。さてはバスガイドさんとやりとりをしていたのかしらと思い当たり、冷やかし半分で兄に近付いた。
気配に気付いた兄が私に声を掛ける。
「歴。お前に電話しようかどうか迷ってたんだ。捕まってよかった」
「点呼を取るつもり? もう。私は子供じゃないんだから」
「点呼という訳ではないが……」
その兄さんは、やたら上機嫌で。それがかえって引っ掛かるのだった。


■ 麻生 ■

俺と柾は下呂の街並みを散策していた。散策とは言っても、その辺をぐるりと大きく一周しただけだが。
煌びやかな星たちに後ろ髪を引かれつつホテルに戻ると、入口で柾が「待った」と制した。視線を辿り、ロビーを窺えば、そこにはちぃがいた。
浴衣の着こなしに違和感を覚えたのは、帯の結び方が凝っていたからだ。恐らく自分で着付けたのだろう。ちぃにはきっとお手のものに違いない。
浴衣姿にポニーテール、という普段見慣れない格好だからなのか、視線が外せない。
「ヤツが邪魔だな」
柾が呟く。かなり忌々しそうだ。『ヤツ』? ……あぁ、ちぃの向かいで話している千早凪のことか。
「なぁ、行ってみようぜ」
何を話しているのか興味があり、俺は柾を誘う。


■ 歴 ■

「私に何の用事だったの?」
「会わせたい人がいるんだ」
「私に?」
会わせたい人がいるというからには近くにいるのだろうと思っていたから、兄の言葉に釣られ、思わず周囲を見回した。
すると入り口に柾さんと麻生さんの姿を見付けた。
私は小さく2人に向かって手を振るが、兄はしかめ面をして、「違う、彼らじゃない」と一刀両断に付してしまった。
「違うの? じゃあ一体誰なの?」
ここは下呂。今は社員旅行中なのに、私に会わせたい人って誰なんだろう。
「あぁ、来た。こっちだ!」
兄が手を挙げ、人を呼ぶ。振りかえった私の衝撃は大きかった。
見覚えのある男性だった。だってそれは、
「姫丸さん……」
兄の友人であり、老舗呉服問屋の若旦那である姫丸さんだった。どうして姫丸さんがここに……?
「俺が呼んだんだ。現地で落ち合う約束をして」
姫丸さんは、ほんの僅かに笑みを浮かべて私を見下ろしている。本業なだけに、浴衣の着こなし方は抜群で、思わず見惚れてしまう。
「歴さん、こんばんは」
「こ、こんばんは……」
先月、結婚式に着て行く着物を見繕って貰うため、私は姫丸さんが営む呉服問屋を訪ねた。その時のやり取りが頭をよぎり、思わず顔が赤くなる。
「こ……この間は……有難う御座いました」
「いえ、こちらこそ。出来上がりが楽しみですね」
「はい。……あの、姫丸さん、ちょっとだけごめんなさい。――兄さん、こっちに」
「ヒメ、ここで待っててくれ」
「あぁ」
私は兄を離れた位置まで誘導する。開口一番、「どういうことなの」と詰め寄った。
「どうもこうもない。姫丸をお前に紹介したくて呼んだんだ」
「どうしてわざわざ下呂くんだり、そんなことを!? 何を企んでいるの?」
「お前には、信頼のおけるヒメとくっ付いて欲しい」
「……!」
宴会の後、てっきりバスガイドさんと姿を消したものとばかり思っていた。
でもそうじゃなかった。あの時兄さんが姿を消していたのは、裏で画策し、奔走していたからだったのだ……!
「兄さんは、私と柾さんの仲を裂きたいだけでしょう? 姫丸さんを巻き込むなんて可哀想だわ! 非道よ!」
「巻き込む? 非道? 俺はまだ何もしてない。ヒメには『下呂で会おう』と言っただけだ。前から温泉旅行に行きたがっていたからな」
「個人的な思惑を抱いているくせに、ただ旅行に誘っただけだと言い張るつもりなの?」
「そう言えば――『妹に言い寄る不埒な男がいて、迷惑がっている』とは話したかな」
「……どうしてそんなことを……」
「柾は論外だ。お前から引き離すためなら、俺は手段を選ばない」
「駄目よ。姫丸さんを利用しようだなんて、そんなの駄目。兄さんは間違ってる。また引っ掻き回そうとしてる。あの時の二の舞になりかねないわ」
「全く……。変わらないな、あんたは。思惑がダダ漏れだぜ?」
呆れた声を投げかけてきたのは麻生さんで。その隣りには柾さんもいる。更にその横には姫丸さん。
姫丸さんは、当初兄さんから聞かされていた話に食い違いが生じていることに困惑しているのか、眉根を寄せている。
「凪。歴さんを思い遣る気持ちは分からないでもないが……」
魂胆を知った姫丸さんは、兄さんを軽くなじる。でも当の本人はケロリとしたものだ。私の方が恥ずかしくなる。
「姫丸さん。縁を切れとまでは言いませんが、兄さんとの付き合いはおやめになった方がいいかもしれません。このままだと人生が破綻してしまいます」
私がきつく訴えると、姫丸さんは苦笑いをして「凪には貸しがあるから」とやんわり却下される。「それに、凪の性格は把握しているつもりだし」とも。
「お前さん、仏かなんかか? シスコン兄貴には勿体ない御友人だな」
「歴さんが絡んでいなければ、凪も普段はいいヤツなんですが」
「こちとら生憎と、ちぃが絡んでる場面しか知らないからなぁ」
麻生さんと姫丸さんは相性がいいのか馬が合っているのか、スムーズに会話が進んでいく。
その一方で、冷やかな視線を兄に向けていた柾さんが私は気になってしまう。
「柾さん、ごめんなさい、本当に……」
深々と頭を下げても、まだ足りない気がする。不破さんといい、姫丸さんといい、柾さんたちといい、今日は詫びてばかりだ。
「……話がある」
言うなり、手首を掴まれ、そのまま引っ張られる。思わずつんのめりそうになりながらも、柾さんの後をついていくしかない私。
「柾、待て!」
兄さんの鋭い制止を無視して、柾さんは大きな歩幅でその場から離れる。
振り返ると、兄さんの肩を、麻生さんと姫丸さんが行かせまいとばかりに取り押さえていた。


*

柾さんに連れて来られた812号室。それは柾さんに宛がわれた部屋だった。
同室者は誰だろう。麻生さんなのか、他の誰かなのか。それとも柾さん1人……?
どうしたって視線は部屋中央のベッドへと吸い寄せられてしまう。逸る鼓動を自覚しながら、必死に出方を考える。
でもこうなってしまっては思考自体が無駄なのだ。案の定、『どうしよう』から別の言葉に繋がらない。
「今日、キミの兄に宣戦布告をした」
「せ……宣戦布告だなんて、穏やかじゃありませんね。何を言ったんです?」
尋ねる声は掠れていた。私は恐る恐る、柾さんに向き直る。
「キミを手に入れると」
!!!!
柾さんを見るんじゃなかった。
彼の視線は私に注がれている。凍て尽くしかねない、逃れられそうにない、今まで一度として見たことのない目で。
足が竦む。声が出ない。怖い怖い怖い。どうしよう、柾さんがこんなに怖いなんて……。
柾さんの手が私の顔に近付き、僅かに顔を背けた。思わず目をギュッと瞑る。
「……安心して。何もしないから」
その言葉にハッとして、私は恐々と柾さんを見る。さっきとは違う、少し緊張を解いた様子だった。
「『宣言』したのは単なる嫌がらせだ。千早凪を困らせる為の方便さ。キミへの想いが本物だからこそ、最初を大事にしたくて今は手が出せない」
何だかすごいことを言われたかもしれない。『今は何もしないけれど、次は抱くからね――』。そう予告された気がするのだ。
「だがキミは分かってない。僕の欲望は既に限界に近いから……」
呟くその言葉に、またもや私の身体は強張った。
変なところに重心があったせいで、肩を軽く押されただけで、私はいとも簡単に姿勢を崩し、背中側からベッドへと倒れてしまう。
起き上がるよりも早く、柾さんはにじり寄り、頭上から声を被せてくる。
何もしないなんて嘘かもしれない。だってこの人は、紳士の皮を被った男性だもの――。
「自分でこのシチュエーションを仕立てておきながら、今なお自制している自分に反吐が出そうだ」
「柾さん……」
「覚えているかな」
耳元で囁かれた声に、どうにかなってしまいそうだ。
「僕が不注意でケータイを壊れてしまった時だった。
『女性の連絡先が消えてしまって残念ね』という意見が多かった中、キミだけが『お子さんの写真は大丈夫でしたか?』と気遣ってくれた。
思えばあの時からかな。真剣に恋愛対象としてキミを意識しはじめたのは。あれからずっと、抱き締めたくて仕方なかった」
そのエピソードは、かなり前のものだった。絹さんが二十歳だなんて知らなかった頃の話。そもそも、柾さんに関する知識が乏しかった頃。
私と柾さんが出会い――ディズニーランドに『子供たち』を連れて行ったくだりがあって――。
「それはだって……子煩悩な人だなって、ずっと思ってましたから。きっと柾さんのケータイにはお子さんの写真が収められてるんだろうなって。
そう思ったら、尋ねずにはいられなくて」
「キミは人を思い遣れる、素晴らしい女性だ。……くそ、これでは蛇の生殺しだ」
せめてベッドから起き上がらなくては。この体勢は、はっきり言って際どい――! 
とは言えスプリングのせいで、弾んだり沈んだりするベッド。上から伸し掛かられていては、ままならない。
目が合う。それが合図だった。
柾さんの顔が近付き、そして――。

私、こんな時でさえ思い出してる。
――麻生さんのことを。


*

「僕だけを見て欲しい。……と伝えたかったんだ。今日は」
触れるか触れないかの、微妙極まりない寸止めキス。未完成の口付け。
柾さんはむくりと起き上がった。私の手を握ると、ぐいと引っ張り、ベッドから立ち上がらせる。
彼は長く深い溜息を吐いた。それはまるで、誤った選択によって凹んだ気持ちを断ち切るかのように。
私はと言うと、免疫のない睦事めいた行為に、憤死しかねないほど心臓をばくばくさせていた。
それでも静寂は揺蕩い、やがて再び息を潜める私たち。そこに柾さんが斬り込んだ。
「麻生の様子もどことなくおかしいし、姫丸と言ったか? 彼も危険そうだ。何よりキミ自身、揺らいでいるように見える。
僕はこのレース、一馬身も二馬身もリードしていたい。
でも今夜は手を出さないと決めたんだ。キミには心から僕を選んで欲しいから、横着をして揺さぶりをかけたくない」
この人はどこまで正直に自分を曝け出すんだろう? それに引きかえ私は、気休め一つ告げられない。
何か言えば、そのぶん期待を持たせてしまうかもしれない。或いは誤解されかねない。
定まらない心の天秤を、易々とひけらかすべきではない。自分で納得のいく答えを出すまでは。
「一つ、訊いてもいいですか?」
「なに?」
もしかしたら柾さんは気分を害すかもしれない。でも聞いておかなくてはと思ったのだ。
「仮にです。仮にを前提で」
「あぁ」
「私が麻生さんを選んだら、柾さんと麻生さんの友情はどうなりますか?」
「友情? さぁ、果たしてヤツとの間にそんな崇高なものなどあったかな」
「柾さん……」
「キミの言いたいことは分かってる。安心していい。そんなことで麻生と仲違いはしないよ。だからキミの思うようにすればいい」
柾さんは微笑みながら、さっきベッドに倒れた時にほつれたのだろう、私の横髪を摘まむと、ゆっくり耳にかけ直してくれた。
「麻生が気になるのか?」
気にならないと言えば嘘になる。それにもう、誤魔化しようがなかった。
私の視線は去年からずっと、柾さんと麻生さんを行ったり来たりしていた。その熱っぽさは、きっと伝わってしまっているだろう。
女性を苦手としている麻生さんならともかく、柾さんは恋の名うて。私の気持ちなんて手に取るように分かってしまっているに違いない。
ノーと言うことも出来た。でも、それでは私が苦しい。その嘘は厳しい。大き過ぎるから。だから私は「はい」と告げた。
「僕からも質問」
「答えられる質問だといいんですけど……」
「僕も、少しは気に掛けて貰えているだろうか」
手練手管に長けているであろう柾さんから、こんな弱気な言葉が聞けるなんて。さっきまで強気でいたのに。意外な一面を垣間見た気がした。
私はこれも素直に頷く。
「その言葉を聞けて嬉しいよ。……さぁ、今日はもうお帰り。千早凪が心配してるだろうから」
「……はい」
柾さんは部屋のドアを開けた。廊下はしんと静まり返っている。
「えっと……それでは、失礼します」
お辞儀をすると、「千早君」と柾さん。
「さっきは怖がらせてすまなかった」
「……いえ。あの……大丈夫です。おやすみなさい、柾さん」
「おやすみ」
ドアが静かに閉まる。

結局。
柾さんと私には、何もなかったのだ。
あるとすれば。

『僕だけを見て欲しい』

耳朶に残る柾さんの切なる想い。それだけ。


■ 麻生 ■

柾とちぃの姿が完全に消えてしまったあとも、千早兄を捕らえる俺たちの腕力は落ちなかった。
手を緩めてしまえば千早凪のことだ、俺たちを振り切って2人の後を追いかけて行くだろう。だから隙を作るまいと必死だった。
「離せ! 歴が心配だ。438号室で待ち伏せるべきか? それとも柾を見張るべきか……」
「よせ」と俺が制し、「凪、落ち着け」と姫丸サン。
「よくも冷静でいられるな? 歴が心配じゃないのか!? こうしている間にも、柾の毒牙によって妹は……」
「凪、本当に落ち着けって。さっきの彼、人を惹き付ける何かを持ってるように見えるが? そう頭ごなしに反対する必要があるのか?」
「生憎と、あいつへの心象は悪いままだ。それにな、俺の見立てでは、歴はヒメに気があると思うんだ。兄だから分かる」
疑わしいね、という目で姫丸サンは千早凪を見る。
「おれが彼氏候補なのは光栄だが、肝心の歴さんがおれを何とも思ってもいないのでは、協力も虚しいな」
次に俺へと視線を向けた。
「凪は放っておこう。おれが責任を持って部屋に連れて行くよ。貴方も部屋に戻るといい」
スパッと言い切る隣りで「ヒメ、俺は帰らないぞ!」と反対の声が上がったが、姫丸サンは有言実行、本当に連れ戻しにかかる。
腕力では勝てないのか、最終的に千早凪が折れた形だ。呆気にとられつつ、気になるのは柾たちの行方だ。
先ほど千早凪が漏らした『438号室』とやらは、ちぃの宿泊部屋と見て間違いないだろう。俺は4階へと向かった。


■ 歴 ■

「兄さんったら、物理的にも私と柾さんを引き離すつもりだったのね」
8階柾さんの宿泊部屋と、4階私の宿泊部屋。4層も差が開いているのは、幹事である兄がその立場を利用して考案した姦計の一部に違いない。
そうまでして私を柾さんから遠ざけたかったのか。滑稽な悪戯が、今では健気な計らいにすら思えた。
「でも、困ったわ……」
柾さんの部屋で着崩れた浴衣と髪をどこかで直したい。このまま人目を避けて4階まで下りられる可能性はいかほどだろう。
「近くに化粧室、ないかしら」
つきあたりまで歩くと左手に階段があった。取り敢えずこれで下りよう。
人影に注意を払って階下を目指す。その都度、化粧室の気配を探った。やがてそんな雰囲気のフロアに辿り着いた。
5階は宿泊用の部屋ではなく、宴会場だった。ならば高確率で化粧室もあるはず。推理通り女性用化粧室を見付け、素早く足を踏み入れた。
幼児のおむつ交換も可能な大きめの個室を選び、浴衣の着崩れを直す。意外にも時間は掛からない。ものの数秒で済む。
個室から出て、今度は手洗い場へ。手櫛で簡単にポニーテールを結い直し、鏡で全身を確認した。……これなら大丈夫。
今度は臆することなく4階に向かうことができた。
私が泊まる部屋――438号室の前。そこに立っていたのは麻生さんだった。
「麻生さん!?」
私の声に、麻生さんは振り返る。
「……! ちぃ」


■ 麻生 ■

ちぃが意外に早く戻って来たことに驚いた。
ポニーテールも浴衣も、崩れていないように見える。
心のどこかでホッとしている自分を自覚して、その事実にも軽く驚いた。


■ 歴 ■

「麻生さん。どうしてここに?」
「あー……兄貴が心配してたぞ。遅いんだから、もう休みな」
「兄さんに様子を見てくるよう頼まれたんですか? そ、そうですよね。確かに今日はもう遅いし、いい加減寝ないと――」
取り繕うように腕時計を見る。11時15分。……そんなはずはない。
「……私の時計、止まってしまったみたいです」
「どれ? 見せてみな」
私は麻生さんの目の前に手首を差し出した。今となってはうんともすんとも言わない、時を刻むのを放棄したオブジェを。
「俺が直そうか?」
「えっ? でも」
「俺の腕が心配か? まぁ任せなって。悪いようにはしない。それに今ならロハだぜ」
「ロハって、大正昭和時代の言い方ですよね? ふふっ、麻生さん古風すぎますよ」
申し訳ないと思いつつも、その申し出に甘えることにした。後でお礼を考えておかなくちゃ。
それにしても、普段時計を付けているからなのか、時計がないと腕がスースーする。麻生さんは敏感に私の違和感を嗅ぎ取ったのか、
「不便か? そうだよな。まぁ、その間は俺の時計で我慢してくれ」
そう言うと、左腕にはめていた自分の腕時計の片開き式バックルを外し、私の手首にはめ直す。
柾さんもだけど、麻生さんも心臓に悪い。今日は驚く出来事が多過ぎて、心臓に負担を掛け過ぎてしまっている。
火照る顔を見られないように、腕時計を見詰め続けた。シルバーの重厚さ。ケースの種類は長方形。レクタンギュラー、と言うのだそうだ。
「男物だからな。多少ゴツいのは大目に見てくれ」
と麻生さんは言うけれど。それどころか寧ろ……。
「……これ、素敵ですね。ローマ数字がとても見やすいです」
確かにゴツめではあるけれど、フォルムは綺麗だし、好きなデザインだ。
「気に入ったのか?」
魅入っていたところを見られてしまった。
「あ……えぇ。麻生さんのセンス、好きだなぁと思って」
「気に入ったなら、ちぃにやるよ」
「えぇっ!? 駄目ですよ!」
「いや、考えてみたら、ちぃには世話になりっ放しだからさ。
先月だって、妹の邑が『失恋したー』ってちぃの部屋に急に押し掛けて一晩付き合わせちまっただろ? そのお礼もまだしてなかったし」
「でもこの時計、高いんじゃ……」
「恥ずかしい話、そんなに高くない。時計は好きだが、柾やちぃの兄貴のような愛で方、しないから。
俺の場合、あくまで精密機器としての時計が好きってだけでさ。だから気楽に貰ってやってくれ」
私は時計を目の高さまで持ち上げる。麻生さんに見せびらかすように。
「おー。似合う似合う」
「ありがとうございます。大切に使いますね」
「あぁ。……さ、寝た寝た。早く床に入らないと、明日寝坊しちまうぞ」
「はい。じゃあ、私はこれで。お休みなさい」
「お休み」
部屋のドアを閉めるまで、麻生さんは見送ってくれた。
部屋は暗く、ガランとしている。同室の透子先輩はいない。ベッドの枕元に置いていた私の携帯電話が点滅していた。
『ごめん、今日は部屋に戻らない。お休み』
部屋の鍵は4ケタの暗証番号を入力する仕組みだから、透子先輩がいつ帰って来てもその点は大丈夫――なんだけど。
「伊神さんのところ……かな、やっぱり」
伊神さんと不破さんのことで、透子先輩は大変だろう。進展があったことだし。
でも、私は私で――。
ベッドにボスン、と仰向けになる。
左腕をかざせば、そこには見慣れないシルバーメタリックの時計。
「……答えを……出さなくちゃ」


■ 麻生 ■

姫丸サンの登場やら、柾の行動やらを受けて、どうも変だ。イライラするし、八つ当たり気味でもある。
「……参ったな……」
自覚せざるを得ない。とうとう年貢の納め時か。
この不機嫌さには、間違いなくちぃが絡んでいるのだろう――。
「……厄介な心(モン)に気付いちまったな……」
掌にある、ちぃの腕時計を見る。
彼女が大事にしているモノだから、大事に扱わないと。
「『止まった時計』とはまた――縁起が悪い気もするな」
まるで未来を暗示しているかのようだ。不気味さを象徴しているように思えてならない。
いや、意味深に捉えるのはよそうと俺はかぶりを振る。
そろそろ寝るとしよう。何せちぃに腕時計を渡した時点で、針は23時58分を刻んでいたから。
「やっと長い1日が終わる」


2011.06.25-2011.11.28
2019.12.21 改稿


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